大阪城の内堀南側が空堀になっていることについては今でも大阪城の謎の一つとして語られる事が多い。また、現地を訪れていると観光客の方々が地下水の汲み上げすぎで水が干上がったためだとか、大坂の陣で内堀が埋められた跡であるとか話されているのを実際、耳にすることもある。
だが、現在の内堀は寛永元年、徳川幕府再建の時に掘られた物であり、当初から水のない空堀だった。また、豊臣時代の内堀も「豊臣時代大坂城本丸図」によれば、やはり南面のこのあたりは空堀となっている。この理由については確かな根拠が残っているわけではないが、ここでは大阪城に通って感じた事をもとに自分なりの私心をまとめてみたいと思う。
第一の理由『地形』
大阪城は泉北の丘陵から大阪平野に向かって半島状に突き出た上町台地の最北端に位置しており、二の丸北側と南側ではかなりの標高差がある。一度、二の丸北面から南側を眺めてみると空堀底面の方が二の丸北面よりも標高が高く、ここが最初から空堀であったことは一目で納得できるだろう。ちなみに計測された数値で見てみると空堀の底面は約20mと山里丸とほぼ同じ標高となっている。空堀部分はかなり高いのである。(山里丸の数字は地表面のもの。周辺が3~4m程度の武者走りの石垣で覆われているので外からは高く見えていることに注意)
参考までに城内の主な場所の標高を記しておく
・二の丸南面(28.0m)
・二の丸北面(12.7m)
・内堀の平水位(11.5m)
・内堀底面と山里丸(約20m)
*数字は全て昭和34年4月17日付読売新聞記載図に表示されたO.P.に基づく。ちなみにO.P.とはオーサカ・ベイル(大阪湾最低潮位基準)のこと
・写真:二の丸北面から望む空堀部分
空堀の底面の方が二の丸北面よりも高いことが一目で分かる
第二の理由『大規模な工事となってしまうこと』
上記の地形差を考えると空堀部分を水堀とするためには現在の堀底を更に10m以上掘り込まなくてはならないが、上町台地というのは強固な洪積層の粘土層が地表近くまで表れている大阪市内唯一の場所であり、これを掘り進むのはかなりの難事だったのではないかと考えられる。加えて堀の両面を本丸東面と同じレベルの高石垣で覆わなくてはならない上、石垣の勾配を考慮すると更に堀幅を広げなくてはならない箇所も多く、そうなると二の丸南面の縄張りを大きく変更する必要も出てくる。要はそれだけの労力を費やしてまで内堀を全て水堀とする必要があるのかが、まず問題とされたのではないかと思われる。
第三の理由『実際の防御上、意味をなさないということ』
城をめぐる攻防戦がせいぜい千人程度の小競り合いだった戦国の群雄割拠の時代ならともかく、秀吉の天下平定後は合戦の規模がかってとは比べものにならないほど大きくなってしまっていた事情を考えなくてはならない。内堀は言うに及ばず、現在の外堀でさえ数十万の軍勢に取り囲まれてしまえば、その時点で勝負ありとなってしまうことは大坂築城の時代には誰もが承知していたのではないだろうか。実際、秀頼のために大坂城の防御力増強に腐心した晩年の秀吉は惣構堀の開削など城域を拡張する方向には向かっているが、現在のものより更に狭い内堀には手をつけようとした形跡はない。
ましてや関ヶ原や大砲(國崩し)といった近代兵器の登場した大坂の陣など未曾有の大合戦を経ている徳川幕府や天下普請にあたった大名達は誰もが内堀を水堀にした程度のことでは防御上さしたる意味を持たなくなっていることはよく承知していたはずである。よって徳川幕府の大坂城再建時には空堀部分は堀幅を豊臣時代の倍に広げるにとどめ、一番目につく本丸南面の石垣を城内のどの部分よりも立派に組み上げることで幕府の威信を示す方向に力を注ぐことになったのではないだろうか。
・写真:人と比べると石垣の立派さが一層よく分かる。内堀底は大阪市・東部方面公園事務所の方によって毎年、年明けに雑草除去が行われています。
*参考
・渡辺武 著 図説 再見大阪城(再版増補)
(財団法人・大阪都市協会、1983)