2007.03.24

2007年・西の丸庭園夜間観桜ナイターの日程について

20060404_10a 西の丸庭園の夜間観桜ナイターの日程が分かったのでお知らせしておきます。ここの場合、火器は絶対持ち込み禁止だし、閉門時刻も半端とあってどんちゃん騒ぎには向かないけれど(昼間は別)、それだけに、会社帰りにゆっくり落ち着いて桜を愛でるにはいいところ。ちなみにこの期間は今までの年の例からすると、花の状況によっては数日延長されることもありますよ。

*追記(4/5)
 西の丸庭園夜間観桜ナイターは4/5をもって終了しました。なお、本年度は期間延長はありません。


 また、大阪城梅林梅便りを引き継ぐ形で2007年の大阪城桃園、桜の開花状況などを写真で紹介する『2007年大阪城 春のアルバム』をアップしたので、どうかお花見の際には参考にして頂けると幸いです。

 ・期間:3月30日(金)~4月05日(木)
 ・入場券発売時間:午前9時から午後7時30分
 ・閉門:午後8時
 ・入園料:1人一回350円(16才以上)

*写真は昨年(クリックで拡大)

 

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2007.01.27

大阪城梅林・梅便り2007

20070127_03 毎年恒例、大阪城梅林・梅便りが今年もスタートしています。今年は寒波の影響で異様に開花の遅かった昨年のようなこともなく、今のところ開花は順調に進んでいます。週2~3回のペースで更新を続けていますので、観梅の際には参考にしていただければ幸いです。

・写真:『八重野梅(やえやばい)』 *クリックで拡大
 大阪城梅林(2007,01,27)

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2006.11.04

空堀の理由(大阪城・内堀)

Oc20061101_03 大阪城の内堀南側が空堀になっていることについては今でも大阪城の謎の一つとして語られる事が多い。また、現地を訪れていると観光客の方々が地下水の汲み上げすぎで水が干上がったためだとか、大坂の陣で内堀が埋められた跡であるとか話されているのを実際、耳にすることもある。

 だが、現在の内堀は寛永元年、徳川幕府再建の時に掘られた物であり、当初から水のない空堀だった。また、豊臣時代の内堀も「豊臣時代大坂城本丸図」によれば、やはり南面のこのあたりは空堀となっている。この理由については確かな根拠が残っているわけではないが、ここでは大阪城に通って感じた事をもとに自分なりの私心をまとめてみたいと思う。

第一の理由『地形』
Oc20061101_01 大阪城は泉北の丘陵から大阪平野に向かって半島状に突き出た上町台地の最北端に位置しており、二の丸北側と南側ではかなりの標高差がある。一度、二の丸北面から南側を眺めてみると空堀底面の方が二の丸北面よりも標高が高く、ここが最初から空堀であったことは一目で納得できるだろう。ちなみに計測された数値で見てみると空堀の底面は約20mと山里丸とほぼ同じ標高となっている。空堀部分はかなり高いのである。(山里丸の数字は地表面のもの。周辺が3~4m程度の武者走りの石垣で覆われているので外からは高く見えていることに注意)

 参考までに城内の主な場所の標高を記しておく
  ・二の丸南面(28.0m)
  ・二の丸北面(12.7m)
  ・内堀の平水位(11.5m)
  ・内堀底面と山里丸(約20m)
*数字は全て昭和34年4月17日付読売新聞記載図に表示されたO.P.に基づく。ちなみにO.P.とはオーサカ・ベイル(大阪湾最低潮位基準)のこと

・写真:二の丸北面から望む空堀部分
 空堀の底面の方が二の丸北面よりも高いことが一目で分かる


第二の理由『大規模な工事となってしまうこと』

 上記の地形差を考えると空堀部分を水堀とするためには現在の堀底を更に10m以上掘り込まなくてはならないが、上町台地というのは強固な洪積層の粘土層が地表近くまで表れている大阪市内唯一の場所であり、これを掘り進むのはかなりの難事だったのではないかと考えられる。加えて堀の両面を本丸東面と同じレベルの高石垣で覆わなくてはならない上、石垣の勾配を考慮すると更に堀幅を広げなくてはならない箇所も多く、そうなると二の丸南面の縄張りを大きく変更する必要も出てくる。要はそれだけの労力を費やしてまで内堀を全て水堀とする必要があるのかが、まず問題とされたのではないかと思われる。

第三の理由『実際の防御上、意味をなさないということ』
Oc20061101_02 城をめぐる攻防戦がせいぜい千人程度の小競り合いだった戦国の群雄割拠の時代ならともかく、秀吉の天下平定後は合戦の規模がかってとは比べものにならないほど大きくなってしまっていた事情を考えなくてはならない。内堀は言うに及ばず、現在の外堀でさえ数十万の軍勢に取り囲まれてしまえば、その時点で勝負ありとなってしまうことは大坂築城の時代には誰もが承知していたのではないだろうか。実際、秀頼のために大坂城の防御力増強に腐心した晩年の秀吉は惣構堀の開削など城域を拡張する方向には向かっているが、現在のものより更に狭い内堀には手をつけようとした形跡はない。

 ましてや関ヶ原や大砲(國崩し)といった近代兵器の登場した大坂の陣など未曾有の大合戦を経ている徳川幕府や天下普請にあたった大名達は誰もが内堀を水堀にした程度のことでは防御上さしたる意味を持たなくなっていることはよく承知していたはずである。よって徳川幕府の大坂城再建時には空堀部分は堀幅を豊臣時代の倍に広げるにとどめ、一番目につく本丸南面の石垣を城内のどの部分よりも立派に組み上げることで幕府の威信を示す方向に力を注ぐことになったのではないだろうか。

・写真:人と比べると石垣の立派さが一層よく分かる。内堀底は大阪市・東部方面公園事務所の方によって毎年、年明けに雑草除去が行われています。

*参考
 ・渡辺武 著 図説 再見大阪城(再版増補)
           (財団法人・大阪都市協会、1983)

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2006.10.17

第43回大阪城菊の祭典

200610oc04 大阪城では明日10月16日(月)から11月12日(日)までの間、秋恒例・第43回大阪城菊の祭典が開催されています。本丸広場の菊の大花壇を始め、城内各地に飾り付けられた12,000本以上の懸崖菊などが咲きそろった様は本当に美しいのですが、ただ、このところの温暖化の影響からか近年では一番の見頃となるのは期間終了間際の11月初~中旬あたり。飾り付けは終わっているものの、現在のところ、ほころび始めたものを見つけるのすら難しい状態なので、お出かけの際にはご注意下さい。なお、今秋の大阪城の様子は「大阪城・秋のアルバム2006」として逐次アップを続けていますので、菊花の開花状況はそちらでご確認下さい。 ←気合いはいってます(^o^)v

・本丸広場の菊の大花壇(2006,10,17) *クリックで拡大
  今年のお題は「なにわ富士」

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2006.10.14

大阪城の井戸跡

200610oc03 寛永元年(1624)の大坂城図によると城内には実に29もの井戸があったが(本丸:5、二の丸:21、山里丸:2、大手土橋外:1)、そのほとんどは明治以降埋められてしまい、現在残っているのは五つだけとなっている。

 現存する井戸で本丸にあるのが天守台の“金明水”と旧・大阪市立博物館北東角に残る“銀水”。ちなみに桜門枡形内の“銀名水”は市立博物館東南隅にあった“厩曲輪の井”の井筒・礎石を昭和6年陸軍本部建設の際に現在の位置に移した物。水は水道水が引かれており正確には井戸とは言えない。また、西の丸庭園内には城代屋敷内にあった井戸とお花畑にあった井戸の二つが残されている。

 以上の四つは比較的ポピュラーなのでご存じの方は多いと思うが、もう一つ、修道館西側にも井戸跡が残っている。一見して井戸とは分かりづらいのだが、よく見ると巨石をくりぬいた井筒が何故が上下逆に置かれ、落下防止のためか上には板が被せられているが地面と井筒の間の隙間をよく見るとやはりこれは立派な井戸跡。訪れた際には一度、注意してご覧になってみて下さい。

・修道館西側の井戸跡 *クリックで拡大

*参考
 ・秋山進午、内田九州男、中村博司、渡辺武著
        大阪城への招待I (ワラジヤ出版(株)、1982)
 

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2006.10.08

青屋門

200610oc02 昭和28年以来続けられた大阪城城内重要文化財の解体修理の最後を飾る物として昭和44年に残されていた元の材木も使用されて復元された門。ちなみにこの門は幕末の戊辰戦争の城中大火の際に半焼し、残った門上部には明治以降、屋根状の物が載せられていた。(門脇の昭和20年の空襲により損傷したという案内板の記述は間違いであると思う)

 大門の上の多聞櫓は、梁間三間で建物の構造・様式は天保の古図通りに復元されたが、桁行は不足している。また、建物の高さは推定であるなどの理由から大阪城内では唯一重文指定をはずれた古建造物となっている。

・写真:城内側から見た現在の青屋門 *クリックで拡大

*参考
 ・秋山進午、内田九州男、中村博司、渡辺武著
        大阪城への招待I (ワラジヤ出版(株)、1982)
 ・渡辺武 著 図説 再見大阪城(再版増補) (財団法人・大阪都市協会、1983)

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2006.10.07

大手門

200610oc01 従来、天明の雷火によって焼失し嘉永元年(1848)再建された物と考えられていたが、昭和31年(1956)の解体修理の際、寛永五年(1628)創建当時の物であり、屋根のみ幕末に改修を受けていたことが判明している。ちなみに大手口の塀は多聞櫓と千貫櫓の間のものが一部手は加わっているにせよ創建当時の物で、大手門の左右は復元されたものである。

・写真:城内側から見た大手門
 門の両脇の控え柱があり、その上にも小さな屋根が載っている形式の門を高麗門様式と呼ぶ。
 屋根瓦にある徳川家の三葉葵の紋章は必見。

*参考
 ・秋山進午、内田九州男、中村博司、渡辺武著
        大阪城への招待I (ワラジヤ出版(株)、1982)
・渡辺武 著 図説 再見大阪城(再版増補) (財団法人・大阪都市協会、1983)
・北川央 著 大阪城ふしぎ発見ウォーク (フォーラムA、2004)

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2006.07.18

石垣のアルバムをアップしました

Oc20060719_06 写真で見る大阪城に「石垣のアルバム」をアップしました。

現在の大阪城の石垣は全て徳川幕府の再建時に築かれたものだが、織田信長の安土城築城時以来、急速に発展してきた日本の築城&石組み技法の粋を結集させた物といってよいほどに見事なもの。築かれた年代による微妙な違い、巨石、見どころなど併せて紹介しているので、どうかご覧になってみて下さい。

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2006.06.08

東外堀

Os2006soto01 大阪城の東外堀はもともと北外堀と一つながりの堀だったが青屋口から玉造口の間は大正時代の初め頃、大阪陸軍造兵廠の敷地拡張のために埋め立てられていた。戦後は公園整備時に堀の輪郭を残す形で整地され、長らくラグビー場と運動場として使用されていたのは記憶に新しい。

 この堀が現在の形で復元されることになり着工されたのは1994年のこと。以後三年間をかけた復元整備工事が行われ、大阪城天守閣・平成の大改修の竣工に合わせる形で1997年3月末に完成している。ちなみに事業規模としては敷地面積約3.8ha、総事業費は約25億円。総延長約500mに及ぶ堀の外周部分の石垣の再構築には城内の他の石垣復旧工事と同じく全て犬島産の花崗岩が使用されている。

 ただ、かって大阪府警のピストル練習場として使用されていた玉造口脇の一角(現在は大阪市公園事務所の樹木養育譲渡して使用されている)と、青屋口出桝周辺部の二ヶ所は掘り戻されていない。

・写真:大阪城東外堀 *クリックで拡大
   ここは平成になって復元された堀

Os2006soto02 Os2006soto03
 青屋口出桝(左)と玉造口土橋横(右)


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2005.12.28

蝋梅の開花始まる~大阪城梅林

20051227_02 大阪城梅林では今年も早咲きの蝋梅の開花が始まっています(まだ、ほんのわずかなのでわざわざ見には行かないでくださいね)。今年も大阪城梅林梅だより、精を出して頑張りますのでよろしくお願い致します<(_ _)>

・写真:大阪城梅林の蝋梅(2005,12,24) *クリックで拡大

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